プランテーションとゴールドラッシュ

 商業小説の世界って、「プランテーション農業型」と「ゴールドラッシュ開拓型」があるなと思っている。

 プランテーション農業型では、地主(出版社)と小作人(作家)がいる。
 地主は、肥沃な土地はここからここまでと白テープで範囲を切って、その中に小作人を投入する。使用する農具や作物が地主から指定されたりもする。小作人はその中で収穫をあげる。
 安定的な供給が見込めて大失敗がなく、ビジネスとして優れている。小作人の替えがきくという意味でも、企業としてリスクヘッジが効いているといえる。
 反面、未開の土地を開拓するという視野に乏しく、肥沃な土地を次々と使い果たしていく、焼畑農業に陥りやすい。

 ゴールドラッシュ開拓型では、開拓者(作家)とスポンサー(出版社)がいる。
 開拓者は、ツルハシ片手に勘と経験で未開の土地を掘り進め、なんか出たり出なかったりする。スポンサーは開拓者の腕と勘に出資し、伸るか反るか。
 供給は不安定で、ビジネスとしてはギャンブル性が強い。開拓者の替えも効きにくい。
 反面、新しい土地を切り拓いたときの見返りは大きく、継続的な土地の拡がりを期待できる。

 ……というイメージだ。

 

 編集者の人たちと話していると、ライトノベル出身の人は前者、マンガ出身の人は後者の感覚が強い。(1か0かの話じゃないのは当然としてね)
 おそらく、雑誌という媒体の差が大きいんじゃないかな。
 マンガの人は、とにもかくにも雑誌に載って多くの読者が目にする機会があるため、「外れたものでも面白ければ売れる」という感覚を持っている。(中身主導主義)
 ラノベは雑誌がなくて、「そもそも手にとってももらえないリスク」をマンガよりも高めに見積もらなければならないため、まずはとりあえず手にとってもらえるジャンル・題材を、という考え方になるのかしらんと。(企画主導主義)

 一般文芸も、以前はゴールドラッシュ型だったが、近年はプランテーション型のやり方がどんどん増えてきている感がある。出版点数の増加によって、「そもそも手にとってももらえないリスク」が増えてきた結果かもしれない。
 不景気・不況になって、ギャンブルよりも着実な数字を取りにいくような方針になっていってるのもあるだろう。

 

 どっちが優れているとかではなく、ビジネスのやり方の話でしかないのだが……僕個人としては、ゴールドラッシュ型の方が好き。
 以前にプランテーション型でやってみたんだけど、地主の意向で土地も農具も作物も定められていく感じが、どうにも窮屈でつまらなかった。
 世界はもっと広いのになぁと。

「あっちの方の土地でやってみたいんだけど!」っていっても、「いや、あそこの土地は枯れてるんでだめだよ」って返されてしまう。
「ちがうんだよ、枯れてる土地を耕したいんだよ!」といっても理解はされない。
 そんなロマンはプランテーション経営のもとでは不要なものなのですよ。

 いくら肥沃で広い土地だって、地主の名前の看板が立った土地は、しょせんは地主の土地なのだ。そこに豪華な屋敷が建っていて、仮に自分の部屋があったとしても、あ、管理されてるなぁ、と。
 僕はもう少し荒涼として狭くてもいいから、自分の名前の土地がほしかった。そこに自分の掘っ立て小屋を建てて、のんびりしたく。

 

 そんなわけで、ツルハシ片手に荒れ野をカツンカツンやる。
 うれしいことに、多少は期待してスポンサーをしてくれる人たちができたので、がんばって成果ださなきゃと思う。

今年の総括

今年の総括をする。

今年は会社を辞めた。以上だ。

 

正直、我ながら専業小説家とか、気が狂ってるとしか思えないです。
出版業界世知辛い話以外聞かないのに。

母親の反応も、

「小説家って……あの、ミカンの空き箱に向かって、原稿用紙になんかせっせと書いてるやつ……?」

って、オールウェイズ三丁目の夕陽の売れない小説家のイメージを想像しながら、ぽかんとしてました。きっと僕がミカンの空き箱に向かって書いてると思っている。

自分でも、この人生の選択はどうなのかなぁ、と悩んだんだけど、まぁ、そのうちこっちで食っていくことになるだろうとは昔から決めてたし、辞めるタイミングも、複数出版社と仕事できるようになって、会社がガマンならなくなったときと決めていたし、んでもって、会社はガマンならないどころか、爆発しろ、大爆発しろと思い続けてはや幾年、という感じだったので、もういいや、爆発するわ、と思って決断に至った。

もちろん、デビューしていろんな現実も見えたし、一時期は商業で書くことに意味を見出だせなかったんだけど、折り合いつつ自分の理想をとおしていくことがわずかながらでもできる可能性があるなら、まずはできるところまで挑戦してみたいなと。

さしあたって10年20年やっていけるかどうか、数年かけて判断したいと思っている。

 

今年はそんな感じの1年だった。会社爆発しろ。

アセクシャルのこと

アセクシャルである。

相手が男女問わず、セックス欲がない。

 

若いころ、付き合ってた人とベッドに入って、

(男女がベッドに入ったんだから、そういうことをするものだろう……)

と思ってしようとしたのだが、相手の服を脱がせながら、"特に興奮もしてないのに興奮したふりをしている自分"にものすごく醒めてしまった。

それで相手を傷つけたくはない。そういうときってどうしても、魅力的だとか魅力的じゃないとか、相手が思い悩んでしまうことはわかる。
だから欲望を持つふりをしなくちゃと思うのだが、そういう作りごとの自分で向かい合っていることそのものがものすごく不誠実な気がして、結局、ひたすらくすぐりあいのキャットファイトに終始してしまった。

何度かそんなことをして、相手をすごく傷つけてしまったような思い出がある。

 

機能に障害があるわけではない。ただ、多く男が男相手に対してたたんのと同じように、女性に対しても男性に対してもたたんのだ。

 

結婚したり、子供を産んだりしてる人たちを尊敬している。

なんというか、「欲があること」自体がすごいと思う。

どんなにそういうことに縁がなさそうな人でも、子供をつくってるってことは、そういう欲があったということだ。
あるいは彼女いない歴=年齢、みたいな人でも、欲自体はある人の方がほとんどだ。(個人的には、欲があるんだったらがんばればいいのに、とも思うけど)

なんか、それって、ふつうの人のあいだでは、いちいち確認するまでもない「人間の前提」みたいなものになっているんだけど……僕にとっては、それって才能だと思うんだよね。
人を体で愛する才能。

 

それは自分にとってはコンプレックスというか、地球上のほとんどの人が共通して持ってる感覚をわからないし、共感できないっていうことが、すごく寂しいし、孤独だなぁと思う。自分はその部分が欠けてるよなぁと。

そして、それは人付き合いの距離感とか、いろんなところに現れていて、人と盛り上がりあったりするのが苦手だし、かなり距離をあけて人付き合いするところがあったりもして。

若いころはすごく悩んで、年食ってからはまぁ適当に折り合って、でもときどき、ぼんやり考えてしまう。そういう欲があったら、また人生ちがってたんだろうなぁと。

まぁ、そしたら小説なんて書いてなさそうな気もするけど。

ぼくのかんがえたさいきょうの小説プロットの書き方

 Kindleでこんなものを出してみた。

 

 プロットって言葉はアマ物書き界隈でもよく聞くし、デビューしてからもすぐに編集さんに「プロット書いてください」って言われるんだけど、
「え? みんなプロットの書き方ってどうやって覚えんの?」
「そもそもプロットってなんなの?」
 っていう部分が、わりと疑問だったので。

 書く方もハテナだし、たぶん編集者さんたちの方でも、ふわっとしかわかってないんじゃなかろうかと。

 なので、ガチガチ理系脳たる僕が、ちょっと解剖してみよう、という感じのもの。トライ・アンド・エラーですよ。
 ……自分がわからないことがあると、ものすごくネチネチ分析研究する性格なのであります(`・ω・´)ゞ

 

 まぁこんなもの出したはいいけど、僕が良いプロットを書けるかというと別問題だがな!

劇団葱とら

 小説を書くときは大きく分けて、脚本家の視点と役者の視点、2つの視点でお話を見ている。

 舞台に例えるなら、

 客席の椅子に座って俯瞰で舞台を見下ろして、冷静に全体を見渡すのが脚本家の視点。
 舞台に立って主観で舞台と客席を見定めて、熱情で引っ張っていくのが役者の視点。


 2つの視点を、お話やシーンによって切り替えたり行き来しながら書いていく。
 作品ごとにどっちが優勢かってのはあるけど、どっちに偏りすぎてもうまくいかない。


■役者の視点

 役者の視点は楽しい。
 この楽しさは、小説の動の部分だ。
 ガラスの仮面北島マヤが語っているとおり、演じているあいだ、自分とぜんぜん違う人生を生きられるのが、「生きている!」って感じがして気持ちいい。キャラの内面がつかめてくると、別の人間が自分の中に根付いたようで、すごくおもしろいのだ。

 僕はリアルの性格がかなりドライで、ぽやや~んとテキトーに生きているので、濃度の濃い人生や感情を3D体感するっていうのが、新鮮で快感なんだと思う。なんで小説なんか書くかと訊かれると、一番は、この演じる感覚が楽しいからなんじゃないかなと。

 短編は特に、この視点をうまく掴めるかどうかで、出来が決まると思っている。

 ……ちなみに、たまに入りこみすぎるのか、以前お話の中で主人公が恋愛しているところを書いていたら、リアルで胸がどきどき苦しくなって、会社のトイレでぽーっとしてしまった。 三十路で。

 

■脚本家の視点

 脚本家の視点も楽しい。この楽しさは小説の静の部分だ。
 役者の視点の楽しさとはぜんぜんちがって、パズルや将棋をするときの楽しさに近い。
 見せ場やクライマックス、描きたいものを考えながら、そこをどうすれば一番効果的にできるかを深く考え、いろんな変化を視野に入れつつ、陣形を厚くして、遊び駒をなくし、一手一手読みを展開させていく。うまくいかなかったら修正する。

 もともと一歩引いて物事を見る気質なので、向いていると思う。
 長編を書くときは、こっちの視点をきちんと稼働させられるかがカギだ。

 小説書きはじめのうちは、スポットで「こういうシーンいいな」という感じで見ることが多かったけど、このごろは、「なんとなくこういう方向に動かしておいた方があとあとやりやすいかな」という感じで見ることが多くなった。これも将棋っぽいかもしれない。

 

■プロデューサーの視点

 ところで商業に入ってからは、役者の視点と脚本家の視点だけじゃなくて、プロデューサーの視点というやつが新規に登場してくるようになった。

 彼はパリッとしたスーツを着込んで金縁のメガネをかけた鼻持ちならない男であり、劇場に入ってくるなり団員たちを前にして、イスに座って足を組みふんぞり返り、
「面白いつまらないなんてべつに興味ないんだよ。この芝居、売れる保証はあるの? 金になるの?」
 と問い詰めはじめる。

 団員たちはいつも粗茶を出したりして彼をもてなすのだが、血気盛んな団員がついにキレて後ろからゴルフクラブで彼に殴りかかるため、彼はたいてい劇場に来たときの記憶がない。

 目を覚ました彼はまた、きみらの芝居なんてだれも興味ないんだよ、数字がすべてだよ、売れ筋じゃないと困るんだよね、とひとしきり語って、みんなうんざりするのだが、

「……売れないで劇団が潰れてしまったら、多くの人に楽しんでもらうことができないだろう……」

 などと不意打ちでぼそりとツンデレっぷりを発揮したりするため、一同はちょっとしんみりしたりするのである。

 

 

  そんな熱い劇団員たちが脳内で青春乱闘して舞台を演じようとしているのを尻目に、僕はごろごろとドラクエをはじめるのであった。

燃える魔球とキャッチボール

 このごろ、全力の一球を投げる! というよりも、相手のキャッチしやすい一球を投げる、ということをよく考えるようになった。

 以前は、文芸の文化の中にいて、
「自分にしか書けない渾身の一作を!」とか「読む人の価値観を変えるようなものを!」
 みたいな声をいつも聞いていたので、僕も、「120%の一球を投げる」とか、「魔球を投げる」とか、そういうことに全力をそそいでいた。

 でも、児童書ってちがうよな、と。

 その一作が自分にしか書けないものだからって、それで子供がよろこぶかっていったらよろこばない。価値観を変えようにもまだそんな世界観も確立してない。
 そういう、「120%の力で読む人をねじ伏せる」みたいなのは、大人の文芸の方の価値観だよな、と。

 児童書では、それよりも、キャッチしやすい球とか、キャッチして気持ち良い球を投げたいなぁと思う。
 手加減するってことではぜんぜんないんだけど、全力で豪速球を投げるより、相手のキャッチしやすい球を投げたい。
 その中で、バシン、っていい音させたいというか。


 ただ、全力で振りぬく投げ方をしない場合、スピードもコントロールも、これ一本! みたいに明確にならない。
 豪速球であれば、自分の中で一本筋が通っているのでそうそう迷わない。120%を投げようと思ったら、自分の姿勢でしか投げられないからだ。
 けど、そうでない場合、いろんな投げ方があるので、迷いも出てくるし、不安になってくる。
 なので、担当さんのフォローがないとうまくいかない。


 でも……「自分のおもしろい」と「相手のおもしろい」を一致させるのでさえすごくむずかしいのに、「自分の考える子供のおもしろい」と「相手の考える子供のおもしろい」を一致させるなんて、ほとんど奇跡に近いことだったりする。

 なにも考えず全力で投げたらたまたまそろってた、なんてことはありえないと思う。

 幸い、担当さんとはこまめに打ち合わせさせてもらってるので、なるほど、そういう感覚だな、とわかることが多い。

 キャッチボールをしながらそのへん探って、すこし外したりしつつ、うまく投げられるようになるといいなと思う。

紙とペン

 このごろ、原稿を紙にペンで書くことが多い。
 小2のころからパソコン使ってるというのに、なぜかアナログ回帰してしまっている。パソコンだと、リズムが合わない。


 児童小説は大人向けにくらべて、文章量の密度が小さい。
 そして僕のタッチタイプの速度は、かなり早い。高校生のころゲーセンで、タイピング・オブ・ザ・デッドというタイピングでゾンビを退治するというわけわからんゲームを、1コインクリアしてたくらいだ。

 そんなわけで、僕がキーボードで児童小説を書いていると、
 たとえて言うなら、指がさっさかさっさか進もうとするのを、
「いや待て、そんなに書くな。ゆっくりスリムに、どうどうどう」
 となだめてるような感じになってしまう。

 指的にどんどん進みたいのを抑えつけられてる感じで、ものすごいストレスが溜まる。

 紙にペンで書く場合は、文字を書くスピードがそんなに早くないので、思考の流れと書くスピードがうまく一致して、しっくりくるのだ。


 そんなわけで、紙にペンで書いてからそれをもとにPCに打ち込み、印刷してからまたペンで追記修正し……というめちゃくちゃ非効率的なことをやってる日々。明日はどっちだ。